【無定期連載書評】
『「ことばの市民」になる』とは — 自由の顕現にむけて

谷岡ケイ(ケイ商店)

細川英雄(2012)『「ことばの市民」になる―言語文化教育学の思想と実践』ココ出版.

もくじ

1.第1部 言語教育は何をめざすか

1.1.第1章 日本事情から始まる学習者主体

第1部は「言語教育は何をめざすか」とタイトルがついている。その第1章が「日本事情」から始まっていることに,まず注目しよう。本書が出版された2012年当時において,言語教育は何をめざすかを論じる際に「日本事情」から迫ろうとする者は他にいなかったのではないだろうか。そのためか,わざわざ1節のタイトルを「今なぜ『日本事情』か」として,読者にこの特殊性を説明している。曰く,近年の日本語教育では,社会や学習者のニーズによって,日本語ということばの教育だけではなく,ことばによる文化・社会の教育が必要となってきており,この文化・社会の教育がいわゆる「日本事情」である,と。つまり「日本事情」教育を時代が求めているとの主旨であるが,もしそうであれば,「日本事情」教育研究に没頭する多くの教育者たちがいるはずだが,少なくとも本書出版時にそういった事実は確認できまい。さらには,こうした主旨は,本書発刊(2012年)頃の細川の主張とはかなり異なっており,わざわざ本書の冒頭にこの「日本事情」論を掲げているのか,不可解である。

しかし,本書は「日本事情」から始まらねばならない理由がある。「日本事情」とは何か,そして,細川自身がいかに日本語教育に携わるようになったのか,この両面からその必然に迫る。

1.1.1.「日本事情」とは何か

「日本事情」とカギ括弧がついていることからもわかるように,本書での「日本事情」は一般名詞ではなく,固有名詞のそれを指している。直接には,1962年の文部省令21号(大学設置基準の初回改正)についての,文部省大学学術局長からの国公私立大学長宛通知「外国人留学生の一般教育等履修の特例について」(1962年第244号)[2]がその源泉となっている。この特例は,留学生は日本語科目を卒業単位にしてもいいですよというもので,「特例による科目開設にあたっての留意事項」として

(1)日本語科目および日本事情に関する科目(以下日本語科目等という)を置き,これを開設する場合,いくつかの授業科目に分けて実施することができるものとする。たとえば,日本事情に関する科目としては,一般日本事情,日本の歴史および文化,日本の政治,経済,日本の自然,日本の科学技術といったものが考えられる。

とあり,一見すると,日本に関するあれこれをなんでも日本事情に関する科目として実施できます,というだけの話に見える。[d]

法・政における日本事情そのものが何であるのか,他の法文に目をやると,外務省設置法の1964年5月改正において,第13条1,2号に外務省情報文化局の事務として「国内情勢の対外報道」と「日本事情に関する海外に対する広報」という並記が現れる[a]。法文に限らずこれ以外でも外務省関係の文書では,たいてい「日本事情」は日本が主体となって発信すべき何かであるというニュアンスがあるように,この法律では,メディアが勝手に発信する日本についてのなにかが「情勢」であるのに対して,国家がうれしく発信するものは「事情」であると明確に使い分けている。つまり「日本事情」とは,日本についての発信したくなるような何かイイコト,といった意図がある用語なのだろう。同様に先の「留意事項」(1)の例として挙げられている,歴史文化政治経済云々も,そういった日本のイイコトを想定しているのではないだろうか。

ただ実際のところは,文部省が言う「日本事情」は,やはり福澤(1866)の『西洋事情』をもじったものなのだろう。『西洋事情』は,社会制度・風習・科学技術など,1863年に文久遣欧使節としてヨーロッパから帰国した福澤の,いわば西洋何でもイイところ大全集で,ベストセラーとなったらしい。外国勢力と直面した幕末期,それら洋外諸国が「敵視すべきものかその友視すべきものかを弁別」するために「外国の形勢情実を了解」することを目的に著されたもので,時勢の沿革を顕わす「史記」,国体の得失を明らかにする「政治」,武備の強弱を知る「海陸軍」,政府の貧富を示す「銭貨出納」の四目を内容としている。「日本事情」においても,このような後世まで実り豊かなステキなことを教えてください,といったところか。

ところで,福澤はなぜ「西洋情勢」ではなく「西洋事情」としたのだろうか。日常で「事情」と聞くと,事情聴取,事情通,大人の事情,諸般の事情,交通事情,とかのように,こっそりしたちょっと何かややこしいこと含み,のようなニュアンスを思い浮かべる。古い用例を見ても,『史記』の「孟子荀卿列傳」で恵王が孟子を「迂遠而闊於事情」と評しているように,これも「難しいことを言っても,いろんなややこしい“事情”ってもんがありまっせ」という雰囲気を感じさせる。そして『西洋事情』もまた,攘夷論の只中の執筆であることを鑑みれば,まさに「事情」のもつこっそり感がふさわしく思えてくる。[8]

閑話休題。『西洋事情』が明確な意図をもって集成された事情集だったのに対し,文部省令の「日本事情」はいったい何を想定したものなのかよくわからない。その印象は先の「留意事項」の続きを読めばいっそう強くなる。

(2)日本語科目等として開設する授業科目は,大学教育の水準に応じた内容を有することを要し,初歩的内容のものは従来どおり基準外の扱いとする。また,各授業科目の内容については,日本人学生に対する一般教育科目の趣旨と同様の教育的意図を実現できるように留意するとともに,学生が在学または進学する学部の専攻分野に応じた基礎知識をもあわせて学習し得るよう配慮することが望ましい。

(3)日本語科目等は,少なくとも外国人留学生数名以上を対象として授業を行なう場合に開設するものとして,1・2名に対して行なう補習授業的なものをこれにあてることは望ましくない。

(4)日本語科目等の授業科目は,新設(既設科目の改編を含む)することを要し,一般教育科目等の既設の授業科目を,そのままこれにあてることはできないものとする。

(5)保健体育科目の講義2単位を日本語科目等によって代替する場合は,日本事情に関する科目中に,保健体育科目の趣旨を加味し,保健衛生等の内容をもりこむ等について配慮されたい。

つまり,日本についての何でもいいけど,日本人大学生レベルの内容で,同時に専攻分野の知識もつけられて,極端な少人数制はダメで,既存の授業でもダメで,保健体育の内容も含んでて良い,という,何をどう理解すればよいのか,サッパリ要領を得ない留意事項が羅列されている。[e]

この一体全体何なのかわけがわからない留学生教育概念「日本事情」こそ,細川が最初に日本語教育関係で赴任した金沢大学での担当科目だった。そして,このわけのわからない「日本事情」の空虚空隙こそが,細川の横溢する探求心の十分な受け皿となったのだった。

ちゅう

1.1.2.日本語教育への着目

細川が,北陸ただ一人の「日本語・日本事情」担当教官として金沢大学に赴任したのは1986年のこと。これ以前の細川は,日本語教育の専門家でも何でもなく,ごく「まっとうな」もっぱら国語学界の一員であった。『軽口初笑』『醒睡笑』等古典文献の翻刻のほか,博士課程在籍中の「禁止表現形式の変遷」(1973)に始まる,否定表現,上代の「怪し」や現代に至るまでの寒冷感覚をはじめとした形容詞,などなどの表現形式の分類と分析は,細川の研究史初期のほぼすべてを占めているといっても過言ではない。1999年の西原鈴子批判「『お茶がはいりました』―日本語と日本社会」によって,言語形式からその意味を担う社会・文化の客観的特性は導出できない,ってきっぱりと宣言するまで,形式への注目は四半世紀に及んでいる。

これら細川の言語形式への注目は,その目的に特徴があった。言語そのものの解明を目指すというより,文学的心情主義的解釈という(誤りを含む)伝統を,正確な形式分析によって克服する,というところに狙いがあった。この発想は,院生時代に高校で非常勤の国語教員を務めた時期も,信州大学で国語科教員の養成にあたった時期も一貫しており,形式を分析することによってことばの真意に到達できるという強い信念があった。そのわかりやすい例が『伊豆の踊子』のいわゆる「さよならを言おうとしたのは誰か」問題についての80年台末の論考[3]で,文法に基づいて精査すれば多義性は微塵も無い,と文芸主義的解釈を一刀両断している(後にこの判断は,完全に撤回され,逆に文法の個人性・多様性の根拠とされるのだが)。

こうした心情主義への敵意と形式への信念とは,いったいどこから生まれたのだろうか。

高校では文芸部に所属していたほどの細川青年が早稲田の国文に入るのは特に驚くことはないが,縁あってT教授(時枝直系のこの師はなぜかいつもイニシャルで紹介される)の自主ゼミに参加した際,T教授に「優しい笑顔で『期待しています』と応え」られた(『研究活動デザイン』)のが,国語学専攻となった直接のきっかけのようだ。教育者が発するこうした肯定的な一言は,案外,その人にとって大きな影響を残すもので,私自身『日本語教育と日本事情』で自分のレポートが取り上げられたことで「この細川とやらは,私ほどではないが,なかなか見る目がある」のような印象を持ったがために,今なお,こうしてこんなものを書いている。

さて,国語学への参入はそんな師のひとことがきっかけかもしれないが,心情主義への敵意は何なのだろう。院生時代,文芸専攻の連中が堂々と闊歩する一方,国語学徒は「妙に社会性がないというか人格的にもエゴイズムの塊のような人」ばかりと感じたりして,要するに文芸世界への憧れを残しながら,他方,非常勤の高校国語教師としては,心情と表現内容一辺倒の国語教育にはさっぱりなじめなかったりしている。細川青年の実感としては,ことばに携わろうとはしているが,一体全体ことばをめぐって自分は何をしようとしているのか,どんな世界に行きたいのか,さっぱり先が見えない,そんな思いに支配されていたのだろう。しかし現実の日々として,高校国語の非常勤,信州大学教育学部での国語教員養成,と,どんどん国語教育の実践に関わるようになって,やはり自分は心情主義によってではなく,言語そのものの魅力を伝えたい,そんな確信を強くしていく。[4]

そんな心情主義的国語教育打倒を思うようになったころ,方法論としてどうやらたまたま「漠然と」出会ったのが,日本語教育,という世界だったようだ[k]。国語学的見地から国語教育実践を日本語教育理論と対比させることによって,国語の心情主義のくだらなさを雲集霧散せしめたらん,そんな希望を得たのだろう。

それにしても,この国語にしろ日本語にしろ「教育」へのこだわりは何なのか。単に,言語の形式についてあれこれしたいだけなら,一般言語学研究でも,詩的言語の探求でも,外国語学研究でも,何でもかんでも選択肢はあろうに。細川の今日まで続く教育探求への強い想いには,何かその特別な理由があるように思えてならない。

そこで(安易なんだけど)さかのぼると,細川が自らの幼少期について言及しているのが『パリの日本語教室』。そこには,幼時の思い出として,細川武子が「源義経の話を繰り返ししてくれた」と綴られている。細川武子(1892~1956)は,東京府女子師範学校卒業以来,長らく教師として女子教育に携わり,私立調布高等女学校(現,田園調布学園中等部・高等部)副校長(1926~?),私立立華学園中高校長(?~?),同幼稚園(現,たちはな幼稚園:町田市)園長(?~?)を歴任するなど,その名を現在に残す教育者である(たちはな幼稚園にその胸像が今も飾られているらしい[b])。さらには,童話や少女小説の人気作家でもあり,その作品の自身によるラジオ口演によっても当時広く知られており(「放送童話」というジャンルを代表する一人らしい),なかでも『女学生記』(1941)は結構な豪華キャスト(谷間小百合,高峰秀子,山田五十鈴,ほか)で映画化されるほどであった。

武子は,安子と雄二郎(開国期『日本財政総覧』を独力で著した統計学者として知られる)の次女として産まれ,以来父からは,「一個の人格」として6歳から四書五経を教えられ,7歳にして古事記の講義を聞かされ育ったという(『巨いなる母』)。さらに祖母,母,先生からも「お話をきくことが大すき」(『童話集』)で,後の教師経験を通じ,子どもはみんなおはなしが好きだと確信し,島崎藤村らに師事までして童話作家になったような人である。ただ,それらの作風は,あまりにも時代に規定されており,「子は無垢,少女は乙女,女は修養・結婚そして母」程度しか読み取れない私自身の文芸センスのなさは残念でしかない。

そんな武子から,英雄坊やは義経物語を聞いて育ったというのだから,牛若丸が日々天狗相手に太刀を振ったように,今や細川が日々丸太相手に斧を焚き木に振りまくっている(『薪ストーブの』)ということで,まさに三つ子の魂百までと言うにふさわしい。

こうして見てきたように,細川は言語形式至上主義のまま日本語教育界に参入していき,そして,日本事情というわけのわからんものに対峙させられたのだった。その結果,当初構想した一切の形式はガラガラと崩れ去ることとなる。この本書第1章「日本事情から始まる学習者主体」は,形式主義と「日本事情」とがいかに崩れ去っていこうとするのか,その顛末の中途報告となっている。

あくまでも中途の報告だというのは,本章1節で示されている教育論は,最終章のそれと対照的なまでに異なっているからだ。2点にまとめちゃって挙げると,ひとつは,学習者のニーズを教育の出発点においているところ。「学習者の質の転換」が「学習者の多様化したニーズ」をもたらした結果,「学習者の求めているのは」日本の社会文化の理解である,と,徹底して学習者ニーズを重視している。もうひとつは,日本語,日本社会,日本文化,そして日本という概念に対する無批判な視点。趣旨としては副節題のとおり「ことばの教育からことばと文化の教育へ」だが,そのことばや文化とはあくまでも日本語や日本の文化を指している。

これらを構想した当時の細川が,ほとんど日本語教育についてはいわば素人同然だったことを思えば,こうした志向はごく自然なものといえる。文部省や大学からのお達し(最近人気の日本文化・社会を教えてね)と,自身のすでにもつ思想(ことばや文化は主体が分析発見する客体だ)とを頼りにコトを進めていくしかないのだから,ひっきょう「日本事情」教育は日本の文化社会を学習者が発見するものとするほかはない。

(ニーズ主義については,後の章で詳しく述べられるので置いとくとしても)しかし,この無批判な日本概念を,細川個人をその源とするだけでは,ここでの意味を捉えきることはできない。細川の研究態度を構築した国語学という世界,それが背負っている歴史と伝統によって,かなりの部分が規定されているからだ。

そこで再びいったん本書を離れ,初期の細川の教育概念形成を決定づけた国語学の伝統・歴史とはどんなであるか,簡単にではあるが振り返っておこう。

ちゅう

1.1.3.国語学の伝統と歴史

国語学というかなり独特の分野をまとめることなど,さっぱり門外漢の私にできるはずはないが,本書本章の「日本」の意味をつかむためだけなら,以下のようにまとめてもそんなに怒られないだろう。

国語学の始まりは,国語学会(1948)公式では,上田萬年が東大で博言学講座を開き「始めて科学的体系を持つた国語学の講義を講ぜられ」た明治27年とされている。ここで「科学とは」と聞かれても,私には「ポパーが言ったことだ」くらいしか言えないが,そのせいで私には余計に,国語学者による次の発言の意味がわからない。「仮説を立て,現実の事象と照らし合わせることによって,一つの仮説が現実を正しく説明できるかどうか…そのことがあまり旧来の言語学(=チョムスキー以前の国語学:筆者注)で明確に意識されていなかった。」(野村,1973,p. 3)仮説演繹法に依らない科学的体系としての国語学とはいったい何なのかしら,と。

そこでいくつかの教科書を見たりして,なんとか一つの印象を得た。国語学とは,歌学を中心とした国学に,比較言語学を重ねたものかな,と。つまり和歌とかの(いわゆる古典)文献の通時的変化を情意[6]的に解釈し,その成果について共時的差異/同一を分類する学かな,と。そしてその成否は,論証体系が反証可能かどうか,とか,どれくらい反証されずに持ちこたえるか,とかとは全然違って,さらにより興味深い言語事象を発見することができるか,とか,より面白い解釈を生み出せるか,とか,ややこしそうなことがスッキリした感じになるか,のような,趣き深い知的面白さ,みたいなのにかかっている感じがする。

では,こうした研究をする国語学の世界は情趣あふれる雅な世界なのかといえば,まったく逆で,実際には常に「国語(国字)問題」と背中合わせに存在する,きわめて政治的な世界。国語問題は,国体の二度の大変化,つまり明治開国と敗戦民主化において特に大々的な話題となり,猫も杓子も首を突っ込んでくる中,国語学は独特のポジションを確立していった。

多くの国語問題の論者は,基本的に都会の人の話したことだ。「士民を論せす国民に」(『漢字御廃止之議』前島,1866)ってったって,国語だの国体だの国だのといった感覚は,外国との相対関係においてしか実感できないもので,田畑を耕して山海川で獲ってる民民にとってそんなものは,戦争で自分や身内やが取られてくときくらいしか感じるものではないでしょう。一方国語学は,実質的創始者であるB. H. Chamberlainからしていきなりアイヌ語,琉球語の研究をしたり,戦後は国研の主要業績『日本言語地図』[c]が象徴するように,都会じゃないところにもことばはある,国語の世界は広大だ,ということを実感をもって知っている。イ(1996)をはじめとして国語の批判的研究ですっかりおなじみの上田や保科といった官僚的学者は,たしかに都会の仕事をやったのだろうけど,国語学の厚みはそこにはないように思う[j]。むしろ,いつでもどこでもだれにでもことばはある,という実感が,国語研究の評価基準を面白さ趣深さにすることを可能にしているんじゃないかと。

じゃあ,どうして官僚的学者の言説みたいな論が幅を利かせてるんだ,と問いたくなる。それは国語だからだ,つまり国語は政治でしかないからだ。どんな研究があっても,行政として実行されない限り国語は国語として何も実現しない。国語の実現は基本的には教育によって可能となる。そして戦後の国語教育は,国立国語研究所がデータを提供し,国語(文化)審議会がデータから立案し,文部省(文化庁)国語課が実行する,という三つ巴関係から実現してきた。国研は設立時から「言語生活」の研究を使命とされたように,言語学史上でもかなり早くから社会言語学的立場をとってきた。そのとにかく現場べったりの研究の蓄積は相当だが,政治としては所詮立法・行政へのデータの提供でしかない。われわれが理解できるメッセージとしては,官僚学者のセリフとなってからのもの。だから田舎を見据えた国語問題は素人にはなかなか見えてこない。

しかし国語学者らなら知っている。実動としての国語教育において例をあげれば,戦前戦後に及ぶ生活綴方運動,特に北方(性)教育運動を知らなかったわけはない。たとえば湯沢小学校の『湯城』20号「わが郷土」特集号(1931)など全国的に知られた(秋田大学北方教育研究協議会,1979)文集の一つくらい一読くらいはしてようから[9],都会からは想像だにできぬ田舎の状況を,田舎のことばの状況を,実感として知らないはずがない。さらに直接には,国研前史となる「日本人の読み書き能力調査」(1948~)によって(素人には識字率の高さばかりが注目されたが),日本人(特に東北農村)のリテラシーがあまりに低いことに愕然とした経験もあった。この時代,田舎の人々もあわせて,荒廃したこの世を,新国家日本として再出発したい,民主主義であれプロレタリアート独裁であれなんか知らんが,みんなで幸せな世界にしたい,そういう気持ちで満ち溢れていたはずだ。国語学界が考えた,日本の国語をなんとかしたい,という感覚は,これら徹底した調査・研究・実践と未来への希望との文脈で捉えなければ,その趣き深い意義を見失うだろう。

シティ派官僚学者にはわからない,この島々の隅々にまでいきわたっていることばで,幸せな世界を実現するんだ,という意志が国語学のいう「国語」や「日本」という単語にはこめられているはずだ。その実現の方法として「民主主義」が戦前思想の延長上に置かれたとしても[m],それはシティ派の話で,きっと田舎までを知る国語学は,民主主義(でも共産主義でも)を,この国の国語で実現できる,すべき思想・社会として,夢想しただろう。あそこまで言語生活を知っておきながら,そうでないなら,もうそれはただの言葉馬鹿かほとんどビョーキ(用例カードフェティシズム)かとしか私には思えない。

そういう国語学史を考慮に入れると,細川が「日本」「日本語」にこだわったのも,民主主義,かどうかはわからないけれど,幸せを実現したいという人間の希望がその概念に含まれているのを,国語学研究を通じて体感していたからではないだろうか。それは,日本文化も国語文法さえも自らが発見し構築するものであるという一貫した主張とも符合する。自らが発見し構築する新社会としての「日本」,これこそまさに民主主義社会の実現を目指す発想であって,ことばの市民論の第1章としての意味がここにはじめてわかるのである。

ちゅう

1.1.4.長谷川科研

あらま,第1章を読み始めるまでに1万字を費やしてしまったが,ようやく準備ができたので本書に戻ります。まず本第1章をまとめてしまえば,以下のようになる。

文部省令はともかく現実として行われている「日本事情」には2タイプあって,専門家が専門を解説するか,日本語教育家が何かを解説するか,で,前者は学習者の日本語レベルを把握できないから実施不可能で,後者は日本語教師に解説できるようなものはないから実施不可能。どっちにしても何かを教えることを目的とすると「日本事情」教育は不可能。なので,内容じゃなく教育方法論として,つまり日本・日本語での行動・生活から学習者自身にとっての日本を発見する試みとして,「日本事情」を捉えよう,と。

スルスルあっさりと書かれているので,一読では,万事解決,うまいことを思いつきましたね,という印象を持つが,この本章の表現・文・段落が,相当多数の過去の自著の部分から成っているように,細川がここまでたどり着くのには,その背景にかなり徹底した調査・研究がある。というか,これは細川自身のアイデアというより,長谷川恒雄,佐々木倫子,砂川裕一との研究プロジェクト『外国人留学生のための「日本事情」教育のあり方についての基礎的調査・研究』(1992~3年度.以下,長谷川科研A)を通じた共同成果と言ったほうがふさわしいだろう。

そこでまたまた本書を離れて,いったん長谷川科研Aを振り返ることにして,そこで本章の「日本事情」観がいかに構築されたのかを確認しよう。

「日本事情」は,「混沌」「合意のない」「非統一的」といった形容と結びつけられがちな分野である。

佐々木(1994)がいきなり根拠もなくそう切り出したのは,よほどの実感なのだろう。さかのぼって1988年,学会誌『日本語教育』ではじめて日本事情を特集した65号,そこには佐々木自身の論文も含めおしなべて,日本事情が何かはわからんがとりあえず文化みたいなことを私(ら)はこう教え(ようとし)てる,という論考が並び,これは日本事情じゃなくて教育機関事情の特集号ね,という印象。その状況は数年経っても変わっていなかったようだ。

佐々木倫子は,アメリカでの院生・助手経験から帰国後,朝日カルチャーセンター日本語科主任,静岡大学教養部助教授,国立国語研究所日本語教育センター室長,同日本語教育指導普及部長を歴任した経歴がしめすように,日本語教員養成研究のエキスパートだ。そんな佐々木をしてここまでボロクソに言われる日本事情の状況…。この佐々木と細川が出会ったのは国立大学日本語教育研究協議会日本事情部会(1987か88)。金沢大学で全学を巻き込む日本語・日本事情講座の開設という大仕事に奔走していた当時の細川もまたその感想を,

誰一人として,「日本事情をどうするか」という積極的な提案を行うものもなく,ただ,自分の周辺を取りまく環境の劣悪さを嘆き,日本事情というとらえどころのない分野に対する不安にだれもが怯えたようにうずくまっているという雰囲気だった

と述懐している[f]。この二人が「運命的」に「『日本事情をどうにかしなければならない』という使命感のようなものを共有できた」ことから長谷川科研は始まる。さっそく上記日本事情部会の当時の部会長,方言学の巨人・徳川宗賢に相談してみると,さすが「お殿様」と慕われた(生越,1999)人望人脈だけあって?,うってつけのチーフとして,日本事情を当時ほぼ唯一?マジメに理論的に(主に歴史的経緯から)位置づけようとしていた長谷川をさらっと紹介[i]。ここに廣松渉門徒の立場から独自の日本事情教育を大阪外国語大学留学生別科で模索していた砂川を交え,以後97年まで続く長期の研究プロジェクトがスタートした。

長谷川科研Aは,混乱の中にある日本事情教育について,日本国内の教育機関におけるその実施の現状を大規模調査によって確認し,今後の指針を示そうとする共同研究だった。

その調査は359機関にアンケート用紙を郵送したもので,質問内容も回答用紙もクソ面倒なかたちだったにも関わらず,半数弱からの回答回収に成功しているのは,各現場もよほど困ってたんだろうことを伺わせる。アンケート結果としては,日本事情は主に文化についての教授科目だということ,その文化には生活の些末な慣習から日本学的考察までかなり幅があり特にその中間あたり(=「教養ある常識」砂川,1990)が大事なこと,そしてその教育実践を通じ,単に項目的知識として日本文化情報を提供するだけではもはや形にならず,学習者には異文化への適応訓練が,教員には異文化間の調整能力がそれぞれ必要となっていること,などが明らかにされている。

この時点の細川は,日常生活に埋め込まれた「何か文化的あるいは社会的な目に見えないコードがいろいろあって」それを「発見させていくこと」を日本事情は受け持つという考えで,その発想は『実践日本事情入門』[g]に結実している。

この時,細川と同様のようで,やや異なる主張をしているのが砂川(1994)で,日本事情は「複合機能的な日常的生活世界のその都度の関係の場を自らの関心に応じて言説化できる能力の養成を目指す」ものだという。細川が,発見できる何かというシニフィエの存在をアプリオリに想定するのに対し,一方砂川は,現れては消えるその都度の言説化,つまりシニフィアンの連鎖だけを認める。いやここは廣松流に言い換えるのが妥当だろう,細川の立場は物象化的倒錯に陥っており,世界を事的(ことてき)に捉えることばの教育としてしか,知識教授や体制同化から日本事情は逃れられないと(暗に)表明する。さらに砂川はその方法として,(意味や知識の,ではなく)「視野の拡大」をあげ,こうしたことばの活動によって視野を拡大することで問題発見・考察・対処能力を涵養し,近代知の諸問題を超えることができ,大学での教養教育にふさわしい日本事情として捉えることができると論じている。[h]

細川の本章の主張である「内容から方法論へ」は,このようにほぼ砂川によって「物象から機能へ」として述べられており,ついでに4節の大学の自己点検や日本事情の専門家性の話題も,研究会討論の記録(前者が94年1月,後者が93年10月)の要約の域を出るものではない。細川が「発見する」以外にまだ独自の視点を確立していなかったために[l],そうそうオモシロイことは言えない段階だったことがわかる――だからプロローグとして第1章にわざわざ置いているのでしょう。

とはいえ,砂川の主張が発想としてじゅうぶん納得できるものだとしても,その論が砂川自身の教育実践とどれほど整合性があるのかは私にはわからないし,本人も「論証の手続きを経ない臆言の羅列」と自嘲しているように,実践理論への道筋を立てづらい絵空事めいた話に留まっているのかもしれない。そこで?長谷川らはこの調査研究を,さらに科研費プロジェクト『諸外国における「日本事情」教育についての基礎的調査研究』(1995~7年度国際学術研究,以下長谷川科研B)として継続することとなる。

しかし,一体全体この長谷川科研AとBの間に何があったのか,Bになると細川を含めこの研究グループの論調は結構ガラリとAから大きく変わっている。長谷川(1998)はこれを,近代を脱したポストモダンという時代的要請によるものだと言う。そこで次章第2章は,このポストモダンの思想の代表として「クレオール」が取り上げられる。唐突な印象の第2章だが,長谷川科研A・B間の雰囲気の違いを感じ取るには,ポストモダン思想を細川がどう捉え,どう影響を受けたのかを示す典型として,次の第2章「クレオールは言語教育に何をもたらすか」の挿入が必要なのだった。

ちゅう