1.第1部 言語教育は何をめざすか
1.1.第1章 日本事情から始まる学習者主体
第1部は「言語教育は何をめざすか」とタイトルがついている。その第1章が「日本事情」から始まっていることに,まず注目しよう。本書が出版された2012年当時において,言語教育は何をめざすかを論じる際に「日本事情」から迫ろうとする者は他にいなかったのではないだろうか。そのためか,わざわざ1節のタイトルを「今なぜ『日本事情』か」として,読者にこの特殊性を説明している。曰く,近年の日本語教育では,社会や学習者のニーズによって,日本語ということばの教育だけではなく,ことばによる文化・社会の教育が必要となってきており,この文化・社会の教育がいわゆる「日本事情」である,と。つまり「日本事情」教育を時代が求めているとの主旨であるが,もしそうであれば,「日本事情」教育研究に没頭する多くの教育者たちがいるはずだが,少なくとも本書出版時にそういった事実は確認できまい。さらには,こうした主旨は,本書発刊(2012年)頃の細川の主張とはかなり異なっており,わざわざ本書の冒頭にこの「日本事情」論を掲げているのか,不可解である。
しかし,本書は「日本事情」から始まらねばならない理由がある。「日本事情」とは何か,そして,細川自身がいかに日本語教育に携わるようになったのか,この両面からその必然に迫る。
1.1.1.「日本事情」とは何か
「日本事情」とカギ括弧がついていることからもわかるように,本書での「日本事情」は一般名詞ではなく,固有名詞のそれを指している。直接には,1962年の文部省令21号(大学設置基準の初回改正)についての,文部省大学学術局長からの国公私立大学長宛通知「外国人留学生の一般教育等履修の特例について」(1962年第244号)[2]がその源泉となっている。この特例は,留学生は日本語科目を卒業単位にしてもいいですよというもので,「特例による科目開設にあたっての留意事項」として
(1)日本語科目および日本事情に関する科目(以下日本語科目等という)を置き,これを開設する場合,いくつかの授業科目に分けて実施することができるものとする。たとえば,日本事情に関する科目としては,一般日本事情,日本の歴史および文化,日本の政治,経済,日本の自然,日本の科学技術といったものが考えられる。
とあり,一見すると,日本に関するあれこれをなんでも日本事情に関する科目として実施できます,というだけの話に見える。[d]
法・政における日本事情そのものが何であるのか,他の法文に目をやると,外務省設置法の1964年5月改正において,第13条1,2号に外務省情報文化局の事務として「国内情勢の対外報道」と「日本事情に関する海外に対する広報」という並記が現れる[a]。法文に限らずこれ以外でも外務省関係の文書では,たいてい「日本事情」は日本が主体となって発信すべき何かであるというニュアンスがあるように,この法律では,メディアが勝手に発信する日本についてのなにかが「情勢」であるのに対して,国家がうれしく発信するものは「事情」であると明確に使い分けている。つまり「日本事情」とは,日本についての発信したくなるような何かイイコト,といった意図がある用語なのだろう。同様に先の「留意事項」(1)の例として挙げられている,歴史文化政治経済云々も,そういった日本のイイコトを想定しているのではないだろうか。
ただ実際のところは,文部省が言う「日本事情」は,やはり福澤(1866)の『西洋事情』をもじったものなのだろう。『西洋事情』は,社会制度・風習・科学技術など,1863年に文久遣欧使節としてヨーロッパから帰国した福澤の,いわば西洋何でもイイところ大全集で,ベストセラーとなったらしい。外国勢力と直面した幕末期,それら洋外諸国が「敵視すべきものかその友視すべきものかを弁別」するために「外国の形勢情実を了解」することを目的に著されたもので,時勢の沿革を顕わす「史記」,国体の得失を明らかにする「政治」,武備の強弱を知る「海陸軍」,政府の貧富を示す「銭貨出納」の四目を内容としている。「日本事情」においても,このような後世まで実り豊かなステキなことを教えてください,といったところか。
ところで,福澤はなぜ「西洋情勢」ではなく「西洋事情」としたのだろうか。日常で「事情」と聞くと,事情聴取,事情通,大人の事情,諸般の事情,交通事情,とかのように,こっそりしたちょっと何かややこしいこと含み,のようなニュアンスを思い浮かべる。古い用例を見ても,『史記』の「孟子荀卿列傳」で恵王が孟子を「迂遠而闊於事情」と評しているように,これも「難しいことを言っても,いろんなややこしい“事情”ってもんがありまっせ」という雰囲気を感じさせる。そして『西洋事情』もまた,攘夷論の只中の執筆であることを鑑みれば,まさに「事情」のもつこっそり感がふさわしく思えてくる。[8]
閑話休題。『西洋事情』が明確な意図をもって集成された事情集だったのに対し,文部省令の「日本事情」はいったい何を想定したものなのかよくわからない。その印象は先の「留意事項」の続きを読めばいっそう強くなる。
(2)日本語科目等として開設する授業科目は,大学教育の水準に応じた内容を有することを要し,初歩的内容のものは従来どおり基準外の扱いとする。また,各授業科目の内容については,日本人学生に対する一般教育科目の趣旨と同様の教育的意図を実現できるように留意するとともに,学生が在学または進学する学部の専攻分野に応じた基礎知識をもあわせて学習し得るよう配慮することが望ましい。
(3)日本語科目等は,少なくとも外国人留学生数名以上を対象として授業を行なう場合に開設するものとして,1・2名に対して行なう補習授業的なものをこれにあてることは望ましくない。
(4)日本語科目等の授業科目は,新設(既設科目の改編を含む)することを要し,一般教育科目等の既設の授業科目を,そのままこれにあてることはできないものとする。
(5)保健体育科目の講義2単位を日本語科目等によって代替する場合は,日本事情に関する科目中に,保健体育科目の趣旨を加味し,保健衛生等の内容をもりこむ等について配慮されたい。
つまり,日本についての何でもいいけど,日本人大学生レベルの内容で,同時に専攻分野の知識もつけられて,極端な少人数制はダメで,既存の授業でもダメで,保健体育の内容も含んでて良い,という,何をどう理解すればよいのか,サッパリ要領を得ない留意事項が羅列されている。[e]
この一体全体何なのかわけがわからない留学生教育概念「日本事情」こそ,細川が最初に日本語教育関係で赴任した金沢大学での担当科目だった。そして,このわけのわからない「日本事情」の空虚空隙こそが,細川の横溢する探求心の十分な受け皿となったのだった。
ちゅう
- [2] このあたりの行政文書の原典を見れてない。学長宛通知まで官報に載ってるのかしら。
- [d] 本通知をもって「日本事情」という科目名の出現とする言説があるが,どう読んでもここに「科目名」としてのそれは認められない。
- [a] 第十三条 情報文化局においては、次の事務をつかさどる。
一 外交政策及び国際情勢の対内報道並びに外交政策及び国内情勢の対外報道に関すること。
二 国際情勢及び外交問題に関する国内における広報並びに日本事情及び外交政策に関する海外に対する広報に関すること。
(1984年の局廃止後も,第4条38,39号にそのまま外務省の事務として99年まで?この表記は残った) - [8] 同様の書として新井白石までさかのぼると『西洋紀聞』『采覧異言』(いずれも1725ごろ)と(直接の体験じゃないから当然だけど)少なくともタイトルに「事情」を掲げてないし,実体験にしても大槻玄沢のロシア漂流体験記『環海異聞』(1807)と,同様である。さらにさかのぼっても「~紀行」「~日記」になるから,見聞を体系化する意識自体が近代的なもののようだ。
知らない世界の知らないことを見聞きする教育の発想そのものは,寺子屋でも「往来物」としてあったし,幕末ごろからは「万国往来」「世界風俗往来」等国際的なものもあれこれ出ていて人気もあったらしい(直原,1973)。
対照的に『西洋事情』以後は,うじゃうじゃと「○○事情」という文典が散見されるようになり,たとえば市岡正一の『日本事情』(1875)は,福澤の日本版(上古の習慣から新制度を説明する)を書いたと述べるように,その影響はかなり大きかったようだ。これらの語感をもって以後,外務省情報部が『國際事情』(1926~)シリーズを出版,1930年には『支那人ノ日本語及日本事情研究状況』として,日本語・日本事情を特に説明もなく併記している。それによると中国各地では1930年以前からすでに,日本発行の新聞雑誌等を用いて日本に関する知識の研究・教育が日本事情研究として行われてたとのこと。長谷川(1993)は日本語教育用語としての「日本事情」の初出として『日語研究寶鑑』(大出,1936:滿洲文化普及會刊)を挙げたが,これに先立って「日本事情」というタームは一般化していたようだ。
なお,同じ大出による『効果的速正式標準日本語讀本 第3巻』(1939:滿洲圖書文具刊)や,四宮春行『正則日本語講座 4 日本事情編』(1940ごろ?:新民印書館刊)といった日本事情の教科書もその頃北方で続々と?出ているし,またさらに数年後には,日本の南進に際する日本語教育振興会による教科書に,適応教育としての「日本事情」教育がみられることを,同じく長谷川(1991)が指摘している。現地発で考案された華北系のが,題材に外国文学やシベリア鉄道などその地のものも使ってる(坂田,2015)らしいのと対照的に,他方日本発で考案された南方系は,もっぱら本土文化適応っぽいのが題材のようで。
まぁ内容はともかくとしても,どっちにしろこうした日本・日本語中心による占領・統合の思想的気分が,日本事情のもつ言語感覚として昭和37年時にキレイサッパリ払拭されているとはジョーシキ的には考え難いし,1.1.4.で紹介する1992年の現場へのアンケートでも,異文化適応の強要だとして日本事情を拒否する声が,異文化間教育の立場――砂川(1994)によるとこの回答者は駒田聡だという――から出ているように,やっぱりそういう性格はそう簡単にはぬぐえないってことは確かだろう。
総合して考えれば,「日本事情」に込められた意味合いとは,日本こっそりイイコト大全という原義に,日本中心的発想がこれまたこっそりのっかった,みたいな感じで,やっぱり事情には「こっそり」がふさわしい,てなことになりましょう。 - [e] この混乱のまま,1991年大学設置基準はいわゆる大綱化されるが,そこでもなお,これついての大学長等宛文部事務次官通知「大学設置基準の一部を改正する省令の施行等について」で「外国人留学生等に対する日本語科目及び日本事情に関する授業科目の開設については,留学生等に対する日本語教育等の充実の観点から,引き続き各大学の判断において行うことが望まれるものであること」とわざわざその継続を求めている。
実際,今なお多くの大学での教員募集において「日本語・日本事情担当」と銘打っているように,日本語教育業界においては今日まで(意味内容はともかく)広く膾炙する用語であるのは事実のようだ。
1.1.2.日本語教育への着目
細川が,北陸ただ一人の「日本語・日本事情」担当教官として金沢大学に赴任したのは1986年のこと。これ以前の細川は,日本語教育の専門家でも何でもなく,ごく「まっとうな」もっぱら国語学界の一員であった。『軽口初笑』『醒睡笑』等古典文献の翻刻のほか,博士課程在籍中の「禁止表現形式の変遷」(1973)に始まる,否定表現,上代の「怪し」や現代に至るまでの寒冷感覚をはじめとした形容詞,などなどの表現形式の分類と分析は,細川の研究史初期のほぼすべてを占めているといっても過言ではない。1999年の西原鈴子批判「『お茶がはいりました』―日本語と日本社会」によって,言語形式からその意味を担う社会・文化の客観的特性は導出できない,ってきっぱりと宣言するまで,形式への注目は四半世紀に及んでいる。
これら細川の言語形式への注目は,その目的に特徴があった。言語そのものの解明を目指すというより,文学的心情主義的解釈という(誤りを含む)伝統を,正確な形式分析によって克服する,というところに狙いがあった。この発想は,院生時代に高校で非常勤の国語教員を務めた時期も,信州大学で国語科教員の養成にあたった時期も一貫しており,形式を分析することによってことばの真意に到達できるという強い信念があった。そのわかりやすい例が『伊豆の踊子』のいわゆる「さよならを言おうとしたのは誰か」問題についての80年台末の論考[3]で,文法に基づいて精査すれば多義性は微塵も無い,と文芸主義的解釈を一刀両断している(後にこの判断は,完全に撤回され,逆に文法の個人性・多様性の根拠とされるのだが)。
こうした心情主義への敵意と形式への信念とは,いったいどこから生まれたのだろうか。
高校では文芸部に所属していたほどの細川青年が早稲田の国文に入るのは特に驚くことはないが,縁あってT教授(時枝直系のこの師はなぜかいつもイニシャルで紹介される)の自主ゼミに参加した際,T教授に「優しい笑顔で『期待しています』と応え」られた(『研究活動デザイン』)のが,国語学専攻となった直接のきっかけのようだ。教育者が発するこうした肯定的な一言は,案外,その人にとって大きな影響を残すもので,私自身『日本語教育と日本事情』で自分のレポートが取り上げられたことで「この細川とやらは,私ほどではないが,なかなか見る目がある」のような印象を持ったがために,今なお,こうしてこんなものを書いている。
さて,国語学への参入はそんな師のひとことがきっかけかもしれないが,心情主義への敵意は何なのだろう。院生時代,文芸専攻の連中が堂々と闊歩する一方,国語学徒は「妙に社会性がないというか人格的にもエゴイズムの塊のような人」ばかりと感じたりして,要するに文芸世界への憧れを残しながら,他方,非常勤の高校国語教師としては,心情と表現内容一辺倒の国語教育にはさっぱりなじめなかったりしている。細川青年の実感としては,ことばに携わろうとはしているが,一体全体ことばをめぐって自分は何をしようとしているのか,どんな世界に行きたいのか,さっぱり先が見えない,そんな思いに支配されていたのだろう。しかし現実の日々として,高校国語の非常勤,信州大学教育学部での国語教員養成,と,どんどん国語教育の実践に関わるようになって,やはり自分は心情主義によってではなく,言語そのものの魅力を伝えたい,そんな確信を強くしていく。[4]
そんな心情主義的国語教育打倒を思うようになったころ,方法論としてどうやらたまたま「漠然と」出会ったのが,日本語教育,という世界だったようだ[k]。国語学的見地から国語教育実践を日本語教育理論と対比させることによって,国語の心情主義のくだらなさを雲集霧散せしめたらん,そんな希望を得たのだろう。
それにしても,この国語にしろ日本語にしろ「教育」へのこだわりは何なのか。単に,言語の形式についてあれこれしたいだけなら,一般言語学研究でも,詩的言語の探求でも,外国語学研究でも,何でもかんでも選択肢はあろうに。細川の今日まで続く教育探求への強い想いには,何かその特別な理由があるように思えてならない。
そこで(安易なんだけど)さかのぼると,細川が自らの幼少期について言及しているのが『パリの日本語教室』。そこには,幼時の思い出として,細川武子が「源義経の話を繰り返ししてくれた」と綴られている。細川武子(1892~1956)は,東京府女子師範学校卒業以来,長らく教師として女子教育に携わり,私立調布高等女学校(現,田園調布学園中等部・高等部)副校長(1926~?),私立立華学園中高校長(?~?),同幼稚園(現,たちはな幼稚園:町田市)園長(?~?)を歴任するなど,その名を現在に残す教育者である(たちはな幼稚園にその胸像が今も飾られているらしい[b])。さらには,童話や少女小説の人気作家でもあり,その作品の自身によるラジオ口演によっても当時広く知られており(「放送童話」というジャンルを代表する一人らしい),なかでも『女学生記』(1941)は結構な豪華キャスト(谷間小百合,高峰秀子,山田五十鈴,ほか)で映画化されるほどであった。
武子は,安子と雄二郎(開国期『日本財政総覧』を独力で著した統計学者として知られる)の次女として産まれ,以来父からは,「一個の人格」として6歳から四書五経を教えられ,7歳にして古事記の講義を聞かされ育ったという(『巨いなる母』)。さらに祖母,母,先生からも「お話をきくことが大すき」(『童話集』)で,後の教師経験を通じ,子どもはみんなおはなしが好きだと確信し,島崎藤村らに師事までして童話作家になったような人である。ただ,それらの作風は,あまりにも時代に規定されており,「子は無垢,少女は乙女,女は修養・結婚そして母」程度しか読み取れない私自身の文芸センスのなさは残念でしかない。
そんな武子から,英雄坊やは義経物語を聞いて育ったというのだから,牛若丸が日々天狗相手に太刀を振ったように,今や細川が日々丸太相手に斧を焚き木に振りまくっている(『薪ストーブの』)ということで,まさに三つ子の魂百までと言うにふさわしい。
*
こうして見てきたように,細川は言語形式至上主義のまま日本語教育界に参入していき,そして,日本事情というわけのわからんものに対峙させられたのだった。その結果,当初構想した一切の形式はガラガラと崩れ去ることとなる。この本書第1章「日本事情から始まる学習者主体」は,形式主義と「日本事情」とがいかに崩れ去っていこうとするのか,その顛末の中途報告となっている。
あくまでも中途の報告だというのは,本章1節で示されている教育論は,最終章のそれと対照的なまでに異なっているからだ。2点にまとめちゃって挙げると,ひとつは,学習者のニーズを教育の出発点においているところ。「学習者の質の転換」が「学習者の多様化したニーズ」をもたらした結果,「学習者の求めているのは」日本の社会文化の理解である,と,徹底して学習者ニーズを重視している。もうひとつは,日本語,日本社会,日本文化,そして日本という概念に対する無批判な視点。趣旨としては副節題のとおり「ことばの教育からことばと文化の教育へ」だが,そのことばや文化とはあくまでも日本語や日本の文化を指している。
これらを構想した当時の細川が,ほとんど日本語教育についてはいわば素人同然だったことを思えば,こうした志向はごく自然なものといえる。文部省や大学からのお達し(最近人気の日本文化・社会を教えてね)と,自身のすでにもつ思想(ことばや文化は主体が分析発見する客体だ)とを頼りにコトを進めていくしかないのだから,ひっきょう「日本事情」教育は日本の文化社会を学習者が発見するものとするほかはない。
(ニーズ主義については,後の章で詳しく述べられるので置いとくとしても)しかし,この無批判な日本概念を,細川個人をその源とするだけでは,ここでの意味を捉えきることはできない。細川の研究態度を構築した国語学という世界,それが背負っている歴史と伝統によって,かなりの部分が規定されているからだ。
そこで再びいったん本書を離れ,初期の細川の教育概念形成を決定づけた国語学の伝統・歴史とはどんなであるか,簡単にではあるが振り返っておこう。
ちゅう
- [3] 初出はこれ?細川(1987)大学生の日本語観(原典未確認)
- [4] 形式探求の真意は,本稿「自由の顕現に向けて」の論証過程として最重要ポイントのひとつだから,最終章までに必ずふたたびくわしく取り上げる。自分用メモ。
- [k] 漠然と,では面白くないので,理屈づけよう。まず細川には,ことばによってもっと自分の考えを表現し他人の考えを理解することができるはずだ,という淡い期待があった。しかし国語教育の実情はもっぱら書き言葉(日本語は口語文もまた書き言葉の一種だし)の情操的読み方に固執してて,とても国語学だけには期待できない。しかし,膠着語であり,かつ,かな&漢を併用する日本語(の書き言葉)は,時枝が言うように辞が詞を包み込む構造にあり,つまり心や魂において事物を表す言語である(と国語学徒として納得できる)。つまり国語は本来,自分の考えの表現&伝達&相手の理解にうってつけのはずなのに,今のようにその力をぜんぜん発揮できていないのは,書き言葉が情緒に偏執させられて抑圧しているからだ。そこで日本語教育を見てみると,そこには未だ毒されていない日本語がある,文語でも口語でもない,話されることを待っている書くべき日本語がある。この日本語教育において,真に話されんと待ちわびることばである言語,としての日本語を発見することで,日本語はその根源にある力を初めて発揮できるようになるんじゃないか。この希望が細川を日本語教育に向かわせたのだ。つまりこれは,日本語もフランス語のように,ロゴスの表象としての声の体系たりえる,ヘンな押しつけの情緒主義から解放され自由に真理を探求する対話が可能になる,という希望だ。この希望があったからこそ,細川はフランスに旅立つ。しかし,降り立ったフランスは,あらら,ロゴセントリスムを,フォネセントリスムを,いかに克服するかに必死で取り組む,そんなフランスだった!――これについては,1.2.2~3.で詳説する。
- [b] たちはな幼稚園として60周年―立華高女時代のグループ集う『城南タイムズ』2013年9月15日号,2頁.http://www.jonantim.com/archives/307
この他にも森敦との逸話などもあって,ものすごくゴージャスな家庭のように思えるが,細川の記憶としては,武子が「雇われ校長」になって「金策で走り回った挙げく,病で倒れ」死去して以降は,誰も寄り付かない「物質生活そのものだった」(『土間犬』)と回想するように,あまりイイ感じではなかったとされている。
1.1.3.国語学の伝統と歴史
国語学というかなり独特の分野をまとめることなど,さっぱり門外漢の私にできるはずはないが,本書本章の「日本」の意味をつかむためだけなら,以下のようにまとめてもそんなに怒られないだろう。
*
国語学の始まりは,国語学会(1948)公式では,上田萬年が東大で博言学講座を開き「始めて科学的体系を持つた国語学の講義を講ぜられ」た明治27年とされている。ここで「科学とは」と聞かれても,私には「ポパーが言ったことだ」くらいしか言えないが,そのせいで私には余計に,国語学者による次の発言の意味がわからない。「仮説を立て,現実の事象と照らし合わせることによって,一つの仮説が現実を正しく説明できるかどうか…そのことがあまり旧来の言語学(=チョムスキー以前の国語学:筆者注)で明確に意識されていなかった。」(野村,1973,p. 3)仮説演繹法に依らない科学的体系としての国語学とはいったい何なのかしら,と。
そこでいくつかの教科書を見たりして,なんとか一つの印象を得た。国語学とは,歌学を中心とした国学に,比較言語学を重ねたものかな,と。つまり和歌とかの(いわゆる古典)文献の通時的変化を情意[6]的に解釈し,その成果について共時的差異/同一を分類する学かな,と。そしてその成否は,論証体系が反証可能かどうか,とか,どれくらい反証されずに持ちこたえるか,とかとは全然違って,さらにより興味深い言語事象を発見することができるか,とか,より面白い解釈を生み出せるか,とか,ややこしそうなことがスッキリした感じになるか,のような,趣き深い知的面白さ,みたいなのにかかっている感じがする。
では,こうした研究をする国語学の世界は情趣あふれる雅な世界なのかといえば,まったく逆で,実際には常に「国語(国字)問題」と背中合わせに存在する,きわめて政治的な世界。国語問題は,国体の二度の大変化,つまり明治開国と敗戦民主化において特に大々的な話題となり,猫も杓子も首を突っ込んでくる中,国語学は独特のポジションを確立していった。
多くの国語問題の論者は,基本的に都会の人の話したことだ。「士民を論せす国民に」(『漢字御廃止之議』前島,1866)ってったって,国語だの国体だの国だのといった感覚は,外国との相対関係においてしか実感できないもので,田畑を耕して山海川で獲ってる民民にとってそんなものは,戦争で自分や身内やが取られてくときくらいしか感じるものではないでしょう。一方国語学は,実質的創始者であるB. H. Chamberlainからしていきなりアイヌ語,琉球語の研究をしたり,戦後は国研の主要業績『日本言語地図』[c]が象徴するように,都会じゃないところにもことばはある,国語の世界は広大だ,ということを実感をもって知っている。イ(1996)をはじめとして国語の批判的研究ですっかりおなじみの上田や保科といった官僚的学者は,たしかに都会の仕事をやったのだろうけど,国語学の厚みはそこにはないように思う[j]。むしろ,いつでもどこでもだれにでもことばはある,という実感が,国語研究の評価基準を面白さ趣深さにすることを可能にしているんじゃないかと。
じゃあ,どうして官僚的学者の言説みたいな論が幅を利かせてるんだ,と問いたくなる。それは国語だからだ,つまり国語は政治でしかないからだ。どんな研究があっても,行政として実行されない限り国語は国語として何も実現しない。国語の実現は基本的には教育によって可能となる。そして戦後の国語教育は,国立国語研究所がデータを提供し,国語(文化)審議会がデータから立案し,文部省(文化庁)国語課が実行する,という三つ巴関係から実現してきた。国研は設立時から「言語生活」の研究を使命とされたように,言語学史上でもかなり早くから社会言語学的立場をとってきた。そのとにかく現場べったりの研究の蓄積は相当だが,政治としては所詮立法・行政へのデータの提供でしかない。われわれが理解できるメッセージとしては,官僚学者のセリフとなってからのもの。だから田舎を見据えた国語問題は素人にはなかなか見えてこない。
しかし国語学者らなら知っている。実動としての国語教育において例をあげれば,戦前戦後に及ぶ生活綴方運動,特に北方(性)教育運動を知らなかったわけはない。たとえば湯沢小学校の『湯城』20号「わが郷土」特集号(1931)など全国的に知られた(秋田大学北方教育研究協議会,1979)文集の一つくらい一読くらいはしてようから[9],都会からは想像だにできぬ田舎の状況を,田舎のことばの状況を,実感として知らないはずがない。さらに直接には,国研前史となる「日本人の読み書き能力調査」(1948~)によって(素人には識字率の高さばかりが注目されたが),日本人(特に東北農村)のリテラシーがあまりに低いことに愕然とした経験もあった。この時代,田舎の人々もあわせて,荒廃したこの世を,新国家日本として再出発したい,民主主義であれプロレタリアート独裁であれなんか知らんが,みんなで幸せな世界にしたい,そういう気持ちで満ち溢れていたはずだ。国語学界が考えた,日本の国語をなんとかしたい,という感覚は,これら徹底した調査・研究・実践と未来への希望との文脈で捉えなければ,その趣き深い意義を見失うだろう。
シティ派官僚学者にはわからない,この島々の隅々にまでいきわたっていることばで,幸せな世界を実現するんだ,という意志が国語学のいう「国語」や「日本」という単語にはこめられているはずだ。その実現の方法として「民主主義」が戦前思想の延長上に置かれたとしても[m],それはシティ派の話で,きっと田舎までを知る国語学は,民主主義(でも共産主義でも)を,この国の国語で実現できる,すべき思想・社会として,夢想しただろう。あそこまで言語生活を知っておきながら,そうでないなら,もうそれはただの言葉馬鹿かほとんどビョーキ(用例カードフェティシズム)かとしか私には思えない。
そういう国語学史を考慮に入れると,細川が「日本」「日本語」にこだわったのも,民主主義,かどうかはわからないけれど,幸せを実現したいという人間の希望がその概念に含まれているのを,国語学研究を通じて体感していたからではないだろうか。それは,日本文化も国語文法さえも自らが発見し構築するものであるという一貫した主張とも符合する。自らが発見し構築する新社会としての「日本」,これこそまさに民主主義社会の実現を目指す発想であって,ことばの市民論の第1章としての意味がここにはじめてわかるのである。
ちゅう
- [6] 情意という語より的確な表現がありそう。極端なまでに意味や思想心情を読み取りたい主義,みたいな感じ。言語への帰納的アプローチといえば直接構成素分析がその代表だと習った私には,意味の扱いが両極端すぎて,同じく言語学といっても接点があるとさえ思えないほど。上田の直弟子,新村出の述懐(1972,p. 280:未読)にパウルの『言語史諸原理』(1880)を講読したとあるように,国語学創始時の方法論的基礎はH.パウルに倣ったところも大きいようだ。このソシュール直前の言語学者パウルの歴史を重んじる態度について,ブルームフィールド(1933/1962,p. 22:未読)自身が,心理主義的解釈に固執してて19世紀らしい,と評してるから,私の感覚もまんざら捨てたものではないようだ。
- [c] 研究結果そのものというより,まだ引き揚げ・復員・傷痍軍人戦災孤児,そんな言葉が生活の只中だったころから10数年にわたり,65名もの調査員がほぼ手弁当で2,400人にのぼる老人男性に聞いて回ったというその調査過程(たとえば『言語生活』187「地方研究員調査苦心談」,1967)がもたらしたものをして,こう私は言っている。これら方言,特に生活語や職能語などの研究を見てると,言語研究というより生き方研究に近いものさえ感じる。
- [j] 近現代国語学のイデオロギー性に対する批判的諸考察について否定する気はありません。ただそれらの多くは,いわば意図的にヒドイことを考え行っていた人々を対象としているが――時局に応じて偽悪的に言ってる話まで真面目に読んでは真のヒドさを掴みそこねちゃう――,私が国語学をコワイと思うのは,無色透明に冷徹に分析しているだけです,というその無邪気な雰囲気にある。たとえば陳述副詞の分類等で名高い芳賀綏(1974)は,「言語分析のプロという立場から,分析・記述するときは,時局などにかかわりようがないのだ。それは,分析の対象である言語そのものの持っている本性であ」るとさえ宣言する。さらに70年代当時の論壇について「国語のプロ研究者が分析した専門的」で「クールな知識を置き去りにした論評が栄えて,呪文の渦にしかならなかった,という心配」をしているのだが,こうしたかつての自らの記事を今,ご本人は日々メディアや著書で民族論を展開しながらどう思い出すのかしらとか思う。
- [9] 私は一べつもしてないから知らないんですが,自分の住んだ秋田を一応宣伝。ふつーに読んでみたいし。これら田舎云々は,ちょっとだけど住んで実感したせいか,『実践日本事情入門』のQ&Aで,「うちの地方じゃ状況が全然ちがうんですけど」ってのがやけに印象に残ってる。
それにしても生活綴方教育が,戦後自己批判的な経緯を経て,ついには指導段階論という定式化にまで変節していく過程は,50年代以降の教育二法,新教育委員会法,そして58年の学習指導要領改訂という,ひたすら管理に走る教育行政に流されてしまったものなのだろうが,そんな大きなテーマをここで扱うことができるわけない(本書評3章末でちょびっと再論)。 - [m] あるいは,『米国教育使節団報告書』(1945)の受け売りにしても。なお同報告書は日本の教育方針を現在までなお方向づけているが,これに関して「占領軍の押しつけに過ぎず,日本人自身で考えたものでない」から作り直すべきだ,という論法がある。この「自分自身で論法」は,日本語義務教育,創氏改名,憲法改正,等々しょっちゅう使われてるけど,国・国語から人々までの間にどういう関係を前提としてるのか,よくわかんないからしらん。
1.1.4.長谷川科研
あらま,第1章を読み始めるまでに1万字を費やしてしまったが,ようやく準備ができたので本書に戻ります。まず本第1章をまとめてしまえば,以下のようになる。
文部省令はともかく現実として行われている「日本事情」には2タイプあって,専門家が専門を解説するか,日本語教育家が何かを解説するか,で,前者は学習者の日本語レベルを把握できないから実施不可能で,後者は日本語教師に解説できるようなものはないから実施不可能。どっちにしても何かを教えることを目的とすると「日本事情」教育は不可能。なので,内容じゃなく教育方法論として,つまり日本・日本語での行動・生活から学習者自身にとっての日本を発見する試みとして,「日本事情」を捉えよう,と。
スルスルあっさりと書かれているので,一読では,万事解決,うまいことを思いつきましたね,という印象を持つが,この本章の表現・文・段落が,相当多数の過去の自著の部分から成っているように,細川がここまでたどり着くのには,その背景にかなり徹底した調査・研究がある。というか,これは細川自身のアイデアというより,長谷川恒雄,佐々木倫子,砂川裕一との研究プロジェクト『外国人留学生のための「日本事情」教育のあり方についての基礎的調査・研究』(1992~3年度.以下,長谷川科研A)を通じた共同成果と言ったほうがふさわしいだろう。
そこでまたまた本書を離れて,いったん長谷川科研Aを振り返ることにして,そこで本章の「日本事情」観がいかに構築されたのかを確認しよう。
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「日本事情」は,「混沌」「合意のない」「非統一的」といった形容と結びつけられがちな分野である。
佐々木(1994)がいきなり根拠もなくそう切り出したのは,よほどの実感なのだろう。さかのぼって1988年,学会誌『日本語教育』ではじめて日本事情を特集した65号,そこには佐々木自身の論文も含めおしなべて,日本事情が何かはわからんがとりあえず文化みたいなことを私(ら)はこう教え(ようとし)てる,という論考が並び,これは日本事情じゃなくて教育機関事情の特集号ね,という印象。その状況は数年経っても変わっていなかったようだ。
佐々木倫子は,アメリカでの院生・助手経験から帰国後,朝日カルチャーセンター日本語科主任,静岡大学教養部助教授,国立国語研究所日本語教育センター室長,同日本語教育指導普及部長を歴任した経歴がしめすように,日本語教員養成研究のエキスパートだ。そんな佐々木をしてここまでボロクソに言われる日本事情の状況…。この佐々木と細川が出会ったのは国立大学日本語教育研究協議会日本事情部会(1987か88)。金沢大学で全学を巻き込む日本語・日本事情講座の開設という大仕事に奔走していた当時の細川もまたその感想を,
誰一人として,「日本事情をどうするか」という積極的な提案を行うものもなく,ただ,自分の周辺を取りまく環境の劣悪さを嘆き,日本事情というとらえどころのない分野に対する不安にだれもが怯えたようにうずくまっているという雰囲気だった
と述懐している[f]。この二人が「運命的」に「『日本事情をどうにかしなければならない』という使命感のようなものを共有できた」ことから長谷川科研は始まる。さっそく上記日本事情部会の当時の部会長,方言学の巨人・徳川宗賢に相談してみると,さすが「お殿様」と慕われた(生越,1999)人望人脈だけあって?,うってつけのチーフとして,日本事情を当時ほぼ唯一?マジメに理論的に(主に歴史的経緯から)位置づけようとしていた長谷川をさらっと紹介[i]。ここに廣松渉門徒の立場から独自の日本事情教育を大阪外国語大学留学生別科で模索していた砂川を交え,以後97年まで続く長期の研究プロジェクトがスタートした。
長谷川科研Aは,混乱の中にある日本事情教育について,日本国内の教育機関におけるその実施の現状を大規模調査によって確認し,今後の指針を示そうとする共同研究だった。
その調査は359機関にアンケート用紙を郵送したもので,質問内容も回答用紙もクソ面倒なかたちだったにも関わらず,半数弱からの回答回収に成功しているのは,各現場もよほど困ってたんだろうことを伺わせる。アンケート結果としては,日本事情は主に文化についての教授科目だということ,その文化には生活の些末な慣習から日本学的考察までかなり幅があり特にその中間あたり(=「教養ある常識」砂川,1990)が大事なこと,そしてその教育実践を通じ,単に項目的知識として日本文化情報を提供するだけではもはや形にならず,学習者には異文化への適応訓練が,教員には異文化間の調整能力がそれぞれ必要となっていること,などが明らかにされている。
この時点の細川は,日常生活に埋め込まれた「何か文化的あるいは社会的な目に見えないコードがいろいろあって」それを「発見させていくこと」を日本事情は受け持つという考えで,その発想は『実践日本事情入門』[g]に結実している。
この時,細川と同様のようで,やや異なる主張をしているのが砂川(1994)で,日本事情は「複合機能的な日常的生活世界のその都度の関係の場を自らの関心に応じて言説化できる能力の養成を目指す」ものだという。細川が,発見できる何かというシニフィエの存在をアプリオリに想定するのに対し,一方砂川は,現れては消えるその都度の言説化,つまりシニフィアンの連鎖だけを認める。いやここは廣松流に言い換えるのが妥当だろう,細川の立場は物象化的倒錯に陥っており,世界を事的(ことてき)に捉えることばの教育としてしか,知識教授や体制同化から日本事情は逃れられないと(暗に)表明する。さらに砂川はその方法として,(意味や知識の,ではなく)「視野の拡大」をあげ,こうしたことばの活動によって視野を拡大することで問題発見・考察・対処能力を涵養し,近代知の諸問題を超えることができ,大学での教養教育にふさわしい日本事情として捉えることができると論じている。[h]
細川の本章の主張である「内容から方法論へ」は,このようにほぼ砂川によって「物象から機能へ」として述べられており,ついでに4節の大学の自己点検や日本事情の専門家性の話題も,研究会討論の記録(前者が94年1月,後者が93年10月)の要約の域を出るものではない。細川が「発見する」以外にまだ独自の視点を確立していなかったために[l],そうそうオモシロイことは言えない段階だったことがわかる――だからプロローグとして第1章にわざわざ置いているのでしょう。
とはいえ,砂川の主張が発想としてじゅうぶん納得できるものだとしても,その論が砂川自身の教育実践とどれほど整合性があるのかは私にはわからないし,本人も「論証の手続きを経ない臆言の羅列」と自嘲しているように,実践理論への道筋を立てづらい絵空事めいた話に留まっているのかもしれない。そこで?長谷川らはこの調査研究を,さらに科研費プロジェクト『諸外国における「日本事情」教育についての基礎的調査研究』(1995~7年度国際学術研究,以下長谷川科研B)として継続することとなる。
しかし,一体全体この長谷川科研AとBの間に何があったのか,Bになると細川を含めこの研究グループの論調は結構ガラリとAから大きく変わっている。長谷川(1998)はこれを,近代を脱したポストモダンという時代的要請によるものだと言う。そこで次章第2章は,このポストモダンの思想の代表として「クレオール」が取り上げられる。唐突な印象の第2章だが,長谷川科研A・B間の雰囲気の違いを感じ取るには,ポストモダン思想を細川がどう捉え,どう影響を受けたのかを示す典型として,次の第2章「クレオールは言語教育に何をもたらすか」の挿入が必要なのだった。
ちゅう
- [f] 傍観者的視点っぽいコメントだが,細川自身がはじめて「日本事情」科目を担当したのは89年だというから,この時はまだ体制づくりに明け暮れていた時期で,そのせいでこの視点なんだろう。ただ,自分の研究室名から「日本事情」を隠して日本語研究室としていたとあるから,日本事情の「こっそり」感(1.1.1.参照)だけは相当感じていたようだ。
- [i] 調査研究といえばチームを組んで,というこの言語研究作法は,徳川も長年属した国研において,いきおい大規模となりがちな言語生活関係の研究を進める中ではぐくまれた文化といえそうだ。地道な調査をみんなでべったり行うこの流儀は,個々人の業績が重視される時代になったからか流行らなくなったようで,これら言語生活研究の方法論はより小さい研究も可能な社会言語学的手法にとって変わられた。と,どこかでこういう話を読んだ気がするがどこか忘れた。
- [g] 大和さんの生活の断片から,日本の文化・社会的コードを解読させようというもの。これをドク論では,学習者が自ら発見するから「学習者主体」だと主張しているが,本書出版時での「学習者主体」概念と本書のそれとはほとんど合致するところはない。学習者主体は「論点1」で詳述される。
ちなみに本書の内容は自らがモデルだというが,薪ストーブは素晴らしいという話以外は,実感を伴わない平板なステレオタイプの記述に終始していて,正直,読んでオモシロイというものではない。他方,『パリの』・『薪ストーブ』・『土間犬』そして細川たかみ(1989)は,細川のホントウの生活を夫婦それぞれの(男女それぞれの)視点から綴ったもので,こっちはめっぽうオモシロイ。社会を語るには社会を語る言説空間ってのが,文化を語るには文化をってのがあって,社会やら文化を語ったとしても構造安定なその空間に不安定をもたらす一撃さえ加えてないのなら,それは何も言っていないに等しい,オモシロクない(ジョーシキの上塗り)。つまり社会文化や科学やなんやなら,その言説空間を周到に理解してないと偶然を除けばオモシロイことは言えない――ここに日本語教師による知識伝達型日本事情教育を組織化する不可能性があろう。だけど,言説空間を自分自身とその周囲に認めるときなら,誰でもオモシロイことが言える可能性が開ける(オモシロイのは自分だけかもしれないけど),ちょうど本書評のように。 - [h] このちゅう[g]を踏まえて言えば,自分自身の言説空間を他の空間に関係においてつないでいく,これが砂川の言う「視野の拡大」であって,いろんなことを知るっていうこととはまったく関係がないことを改めて言っとこう。とか言っておいて,私が廣松の何かを知っているわけがなく,マタ聞きマタマタ聞きからの推測で書いている。そのうち何か読もうと思う。とか思ってたら,本書評におけるここまでの日本事情理解のほぼすべてが砂川(1993)にまとめられていたのでした。
- [l] といっても国語教育においてならこの観点は古く,橋本進吉(1937/1950)は,國文法の教授によって,文法という無意識的な「社會の慣習としてのきまり」から「規則性ある事を見出すかといふ方法について、比較的容易に覺らしめる事が出來」るとして,「文化的現象を觀察してその中に存する規則を見出す…この種の觀察法を修練するに適當な學科としては、普通教育の課目の中では國文法の外には見出し難い」と,國文法の国語教育上の意義を説き,またそのためには「多くの實例の中からきまりを見出さしめる」ような「開發的な方法」でなければならないと主張している。